ギリシャ神話 最後の一歩 妻を取り戻せたはずなのに、振り返ってしまうオルフェウスの話

ギリシャ神話

冥界から地上へ続く、長く暗い道。

先を歩くのは、竪琴を抱えた一人の男。その後ろには、亡くなった妻が続いていました。

条件はひとつだけ。地上に出るまで、決して後ろを振り返らないこと。

妻はちゃんとついてきているのか。もう一度、その姿を確かめたい。男は、不安と会いたい気持ちに揺れていました。

地上へ出るまで、あとわずか。男は、我慢できずに振り返ってしまいます。

まずは全体の流れから

この男の名は、オルフェウスといいます。ギリシャ神話に登場する、伝説的な吟遊詩人です。

彼の音楽には、人だけでなく獣や木々、岩までも動かす力があったと伝えられています。妻エウリュディケを蛇に噛まれて亡くした彼は、その音楽の力を頼りに、生きたまま冥界へ乗り込みました。

冥界の王ハデスとその妃ペルセポネの心を動かし、妻を連れ帰る許しを得ます。

条件はただ一つ、地上に出るまで振り返らないこと。ですが彼は、あと一歩というところで、その約束を破ってしまいました。

妻を地上へ連れ戻す望みを失ったオルフェウスは、その後どう生きたのか。そして、なぜ出口の近くで振り返ってしまったのか。文献による違いにも触れながら、順を追って見ていきましょう。

竪琴ひとつで、セイレーンの歌を打ち消した男

オルフェウスは、トラキアのオイアグロスと、女神ムーサの一人であるカリオペイアの子とされています。父をアポロンとする異説もあり、その出自からも音楽や詩との深い結びつきがうかがえます。

彼が参加した冒険の一つが、英雄イアソンらが黄金の羊毛を求めて旅した、アルゴー船の遠征です。船が、歌声で船乗りを惑わせるセイレーンの島に近づいたとき、乗組員たちは危機に陥りました。

アポロニオスの『アルゴナウティカ』では、オルフェウスが竪琴を奏で、その音でセイレーンの歌をかき消します。こうして船は危機を切り抜けました。ただしブーテスだけは歌に魅了されて海へ飛び込み、女神アプロディテに救われたといいます。

なお、船乗りたちがセイレーンに惑わされないよう耳を蝋で塞いだ、という話をご存知の方もいるかもしれません。それは英雄オデュッセウスの冒険での出来事で、こちらはオルフェウスによる、また別の切り抜け方です。

セイレーンについての動画はこちらです

エウリュディケの死

オルフェウスの妻の名は、エウリュディケといいます。

ですが、幸福は長くは続きませんでした。彼女の死の経緯は、文献によって描かれ方が異なります。

詩人ウェルギリウスの『農耕詩』では、エウリュディケはアリスタイオスに追われ、川沿いを逃げていました。

その途中、草むらに潜む蛇に気づかず、噛まれて命を落としてしまいます。

一方、詩人オウィディウスの『変身物語』では、新婚のエウリュディケが水の精たちと草地を歩いているとき、蛇に足首を噛まれて亡くなります。追いかけてきた者の存在には触れていません。

冥界に乗り込んだ男

妻を失ったオルフェウスは、深い悲しみに沈みます。それでも、地上で嘆き続けるだけでは終わりませんでした。妻を取り戻すため、生きたまま冥界へと向かったのです。

オルフェウスは、冥界の王ハデスと、その妃ペルセポネの前にたどり着きます。頼りにしたのは、武器ではなく自分の歌と竪琴でした。

そこで彼は、竪琴を弾きながら、妻を失った悲しみと、連れ帰りたいという願いを歌います。オウィディウスによれば、復讐の女神たちさえ涙を流し、ハデスとペルセポネもその願いを拒むことができませんでした。

ただし、条件がひとつだけ課せられました。地上に出るまで、決して後ろを振り返ってはならない、というものです。

あと一歩で、振り返った

オルフェウスは先に立って歩き、エウリュディケがその後ろに続きました。

二人が進むのは、静まり返った暗い坂道。地上まであとわずかというところで、オルフェウスは、妻がついてこられないのではないかと恐れます。彼女を見たい。その思いを、抑えきれなくなりました。

そして、地上へ出る直前。オルフェウスはついに振り返ってしまいました。

まだ地上には到達していませんでした。約束が破られると、エウリュディケは再び冥界へ引き戻されます。オルフェウスが手を伸ばしても、もう彼女をつかまえることはできませんでした。

冒頭でご覧いただいた場面は、この瞬間のことです。

妻を取り戻せなかった理由――異なる伝承

オルフェウスは、なぜ振り返ってしまったのでしょうか。オウィディウスは、妻がついてこられないのではないかという恐れと、彼女を見たいという思いを描いています。

ウェルギリウスの『農耕詩』では、地上の光のすぐ近くで、一瞬の狂気が彼を襲い、我を忘れて妻を見てしまったと語られます。二つの作品は、ともに、愛する人を取り戻そうとする男が最後の瞬間に約束を守れなかった悲劇を描いています。

一方、プラトンの『饗宴』には、筋書きそのものが異なる伝承が登場します。語り手のパイドロスによれば、神々はオルフェウスに妻本人を渡さず、幻影だけを見せました。彼が愛のために死ぬことを避け、生きたまま冥界へ入ろうとしたためだ、と説明されます。

『饗宴』のこの箇所では、振り返る禁令や、それを破る場面は語られていません。神々が見せたのは妻の幻影であり、妻本人は返されなかったと説明されています。「振り返ったために妻を失う」という筋書きとは、異なる形で冥界下りが語られているのです。

死んでも、歌うことをやめなかった

妻を二度失ったオルフェウスは、深い悲しみに沈みます。オウィディウスの記述によれば、彼はそれ以降、女性を愛することをやめ、若い男性たちに心を寄せるようになったとされています。

『変身物語』では、女性たちを拒む彼の態度が、その最期につながります。トラキアの女性たち、バッコスの信奉者であるマイナスたちが、彼に襲いかかったのです。投げられた石さえ、歌と竪琴の音に心を動かされ、彼の足もとに落ちたと描かれています。

しかし、女性たちの叫び声や太鼓、笛の音が、やがて彼の歌をかき消します。音楽が届かなくなると武器は彼を傷つけるようになり、ついにオルフェウスは体を引き裂かれてしまいました。

別の伝承では、殺害の理由も異なります。アイスキュロスの散逸劇について、『星座物語』に伝えられた話では、オルフェウスはディオニュソスを敬わず、太陽を最も偉大な神とし、アポロンと呼んで崇めました。それに怒ったディオニュソスが信奉者たちを差し向け、彼を引き裂かせたといいます。

その死後についても、さまざまな伝承が残っています。オウィディウスは、頭部と竪琴が川を流れ、海を渡ってレスボス島へ着いたと語ります。流される頭部はなお悲しげな声を響かせ、竪琴もそれに応えるように鳴っていたといいます。

頭部が神託を告げたという伝承もあります。ピロストラトスの『英雄論』では、レスボス島の地面の裂け目に落ち着いた頭部が神託を与え、その言葉は遠くバビロンへも送られたと語られています。

『星座物語』に伝わる話では、散らばった遺体はムーサたちが集め、レイベトラに葬りました。また、ヒュギーヌスの『天文詩』には、ムーサたちが彼を記念して竪琴を星々の間に置いたという伝承があります。これが「こと座」に結びつけられる物語です。

そしてオウィディウスは、彼自身にも別の結末を用意しています。死者となって冥界へ下ったオルフェウスは、エウリュディケを見つけ、抱きしめました。二人は並んで歩き、時には相手の後ろに続きます。今度は彼が振り返っても、妻が消えることはありませんでした。

その名に託された宗教と思想

オルフェウスの物語は、彼の死後も終わりませんでした。

古代ギリシャには、彼の名に結びつけられた詩や教説、儀礼の伝統があり、一般に「オルフェウス教」と呼ばれています。魂の浄化や死後の救済を重視し、プラトンの『法律』には、動物の肉を避ける「オルフェウス的な生活」への言及もあります。ただし、これらを一つの統一された教団と考えるのは慎重であるべきでしょう。

オルフェウスは伝説上の人物であり、彼の名に帰された詩や教説は、さまざまな時代の作者によって作られたと考えられています。古代にもその実在を疑う見方があり、キケロは、アリストテレスが詩人オルフェウスの実在を否定していたと伝えています。

1962年、ギリシャ北部のデルヴェニで見つかったパピルスは、こうした宗教思想を知る大きな手がかりとなりました。「デルヴェニ・パピルス」には、オルフェウスの作とされた神統記への哲学的な注釈などが記されています。現存する巻物は紀元前340〜320年ごろに書写されたもので、UNESCOはヨーロッパ最古の書物として紹介しています。これは写本の年代であり、そこに写された文章の成立はさらにさかのぼります。

おわりに 見るなの禁

たった一度、振り返ったことで、妻を地上へ連れ戻す望みを失った男。

見ることを禁じられ、その約束を破ってしまう話は、ほかの神話にもあります。日本の『古事記』では、イザナミが黄泉の神に相談する間、姿を見ないようイザナギに求めます。しかし彼は約束を破り、変わり果てた妻を見て逃げ出しました。こちらは「振り返るな」ではなく、「私の姿を見るな」という禁忌です。

一方、旧約聖書の『創世記』では、ロトの妻が、逃げる途中に後ろを振り返り、塩の柱になります。こちらは冥界からの帰還ではなく、滅びる町からの脱出です。状況は異なりますが、禁じられたものを見る行為が、取り返しのつかない結果を招くという共通点があります。

こうした物語の類似は興味深いものですが、それだけで同じ起源や意味を持つと断定することはできません。それぞれの物語で、何を見ることが禁じられ、なぜそれを破ったのか。その違いにも目を向けると、神話はより奥行きを増して見えてきます。

地上では果たせなかった再会が、死後にはかなう。オウィディウスの結末を知ると、「振り返る」という同じ仕草も、違った意味を帯びてきます。オルフェウスの歌と竪琴の伝承は、こと座とともに、今も語り継がれているのです。

出典・参考情報源

古代の物語には複数の伝承があります。本記事では、場面ごとに参照した文献を示し、異なる筋書きを区別して紹介しました。リンク先には英訳・原文を含みます。

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